夢の始まり
「創部当時の思い出」垣波 則彦(1期生)
1979年、私たち1期生7人が2年生となり、リーグ加盟に向けて必死で新入部員の獲得を目指していました。何とか試合が出来るくらいの新入生は確保出来ましたが、甘やかし過ぎた事で様々なエピソードが生まれました。
当時はまだ実績の無い愛好会の弱い立場にありましたので、学生課からの印象を良くしようと、全員スポーツ刈りを実施したところ、1年生の中にはそれを不服として辞めたいと言って来る始末。一人でも部員を減らしたく無い私たち2年生は、彼らを食事に誘い説得して何とか引き留めに成功しました。また、別の1年生からも違うスポーツへ移りたいとの申し出があり、同じく食事の「接待」で引き留めました。
何とかチームとして軌道に乗って来た頃には、また困ったエピソードも生まれました。
1年生も大学生活に慣れて来たこともあってか、練習時間となっても複数の1年生が集合場所に現れません。当時は当然携帯電話もありませんので、彼らの友達に聞き込みをして立ち回りそうな場所を手分けして探しました。何と、彼らが居たのはパチンコ屋、角打ちでした・・・言語道断。
そんなこんなの2年、1年生チームで初めての試合に挑んだのが1979年秋のリーグ戦でした。当然連戦連敗、とにかく得点が取れない試合が続き、初めてのタッチダウンは福岡歯科大との最終戦でした。タッチダウン後のハドルでは、皆が肩を震わせて泣いてました。私のプレーコールも半ば泣き声になってたはずです。
問題児ばかりの1年生が、頼りになるチームメイトになってくれたことが、我々2年生は何よりも嬉しかったですね。
1980年、新入生も順調に集まり、春のオープン戦では初勝利を上げる事が出来ました。その年の夏には初めての合宿を糸島にあるお寺で行いました。小さな漁港の町を見下ろす丘の上のお寺で、朝の境内の掃除、座禅など精神修行も行いました。
そこでの新1年生のエピソードもあります。なんと、夜中に寺を抜け出し、漁港町の女子高校生たちと戯れて、朝方に帰ってくる始末。
そんな逞しい新戦力の1年生や数々の出来事がチームの結束力を高めてくれたのか、2年目の秋のリーグ戦では去年の弱小チームから大きく変貌を遂げてました。
振り返ると、練習場所も部室も無い、何時潰れてもおかしくないチームの状態から、1981年の秋季リーグ戦で同率2位となる事が出来たのは、当時の浦監督の存在のお陰です。浦監督は我々1期生より6歳年上でしたので、良き兄貴分的な頼もしい存在でした。
以降、様々な問題を乗り越え、部員の一人一人が後輩へ情熱のバトンを繋げてくれたお陰で、44年後の今も部は存続を続ける事が出来ています。
ここまで来れたのは一重に福田現監督の熱意と尽力に他なりません。
歴代のOB会長、執行部の皆さん、OB、OGとして支えて頂いている皆さんへ感謝の気持ちでいっぱいです。このHP誕生を切っ掛けに、学生チームへの支援、OB会の結束が更に高まる事を期待しています。
1期生 垣波 則彦
創部当時のチーム名は「ファイティングモスキート」、それが「レッドフリーバーズ」になったのは1984年。
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